主に山下達郎氏の記事を中心に
カレンダー
06 | 2025/07 | 08 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
フリーエリア
最新TB
ブログ内検索
最古記事
(02/11)
(02/11)
(02/11)
(02/12)
(02/13)
P R
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
好評"読本シリーズ"の最新刊!
60年代後半から70年代前半にかけて、"フォークの神様"として一時代を築いた岡林信康。その後、波乱に富んだ半生を送ってきた岡林は、この数年、CD復刻などを機に、若い世代を含めて幅広い人気を獲得、2010年1月には美空ひばりのカヴァー集を発表したり、5月からは久しぶりにツアーを開始したりと、意欲的な活動を続けている。そんな岡林信康の魅力を、多くの著名人のインタビューや再録対談などを元に構成した待望の一冊が登場!
【主な内容】
◇巻頭カラー----岡林信康 風の流れのように(写真:浅井愼平)
◇再録インタビュー----岡林信康
◇再録対談----美空ひばり/伊藤銀次/坪内祐三
◇インタビュー----山下洋輔/平野 融/鏡 美代子/矢島礁平
◇エッセイ----浅井愼平/白柳龍一
◇ディスクガイド----全36作品を紹介
◇代表曲7曲の楽譜を収録--山谷ブルース/チューリップのアップリケ/今日をこえて/26ばんめの秋/風の流れに/君に捧げるラブ・ソング/霧のHighway
PR
まあ結局はコンサートの宣伝なんだけど、
それにしても、こういう報道番組に出るとは、
あの狂い咲きコンサートの、日比谷野音で当時の記憶を語る。
例によっての新宿西口のフォークゲリラの報道映像。当時の雰囲気が伝わるけども・・。
「友よ」は当時の左翼のデモのテーマソングだったのだが、岡林さんの話によれば、北海道の自衛隊員の中でも歌われていたとか、自分たちの歌として。
歌は、人に伝わってしまえば自由に歌われる。
岡林さん、当時はギター一本で始めたが、いろいろな曲ができてきて、ロックバンドと共演するようになるが、そうしたらコンサートの依頼が激減したという。
フォークの神様といわれることが苦痛だったという。
狂い咲きコンサート以後岡林さんは2年間活動を休止する。
そのころは岡林さんは活動しないことで非難の声を受けるんだけど気にしなかった。
岡林さん、「政治に何もかも期待することはそれこそヒットラーの出現を待つようになるから、そういうことでは世の中は変わらないし自分も変わらない」
その後やはり歌いたい歌を作りたい気持ちがわいてきて、演歌、ポップス、テクノと変遷し、最近はエンヤトット(日本の村囃のリズム)。
最近やっと今までの流れがいとおしいと思えるようになった、それ以前は昔のものは捨ててしまうのがいいと思ったんだが。
****
最近、過去の歌も歌うようになったのはそういうことなんですね。
岡林さんのいろいろ変わってきましたが最近の心境というのはそういうことか。
村囃への傾倒は個人的には違うんじゃないかと思うけど、いろいろ悩んだ結果なんだろうか。
これが日本風だ、自分だということが村囃しとは個人的にはあまり思わないのだが。
結局、明治以降さまざまな音楽が外国から流れ込んできて、それを皆取り入れてしまったんですが、それで日本古来のものが見えなくなってしまった。
われわれの世代も、アメリカンフォーク、カントリーフォークの強い影響を受け、それが身になっている部分があるわけで、それを抜け出すのが日本人の自分という考えもわからなくはないけども、何か影響を受けている自分が今の日本文化というような気もするのですが。まあいろいろですから。
商売の影響かとおいもいますが、最近のハロウィンブームも、キリスト教徒ではない日本人がやたらと熱狂するのもどうかと思われるのですが、まあここらがミーハーな日本人かと思うし、ここらが気楽に取り入れられてしまうということだと思うのですが。
だからアメリカンフォーク、カントリーフォークの影響があってもなんということはなく、歌われるのは日本語だし、という気もするのですが。まあ人それぞれ・・。
こだわるのは芸術をする人にはいいことだし・・。
それにしても、こういう報道番組に出るとは、
あの狂い咲きコンサートの、日比谷野音で当時の記憶を語る。
例によっての新宿西口のフォークゲリラの報道映像。当時の雰囲気が伝わるけども・・。
「友よ」は当時の左翼のデモのテーマソングだったのだが、岡林さんの話によれば、北海道の自衛隊員の中でも歌われていたとか、自分たちの歌として。
歌は、人に伝わってしまえば自由に歌われる。
岡林さん、当時はギター一本で始めたが、いろいろな曲ができてきて、ロックバンドと共演するようになるが、そうしたらコンサートの依頼が激減したという。
フォークの神様といわれることが苦痛だったという。
狂い咲きコンサート以後岡林さんは2年間活動を休止する。
そのころは岡林さんは活動しないことで非難の声を受けるんだけど気にしなかった。
岡林さん、「政治に何もかも期待することはそれこそヒットラーの出現を待つようになるから、そういうことでは世の中は変わらないし自分も変わらない」
その後やはり歌いたい歌を作りたい気持ちがわいてきて、演歌、ポップス、テクノと変遷し、最近はエンヤトット(日本の村囃のリズム)。
最近やっと今までの流れがいとおしいと思えるようになった、それ以前は昔のものは捨ててしまうのがいいと思ったんだが。
****
最近、過去の歌も歌うようになったのはそういうことなんですね。
岡林さんのいろいろ変わってきましたが最近の心境というのはそういうことか。
村囃への傾倒は個人的には違うんじゃないかと思うけど、いろいろ悩んだ結果なんだろうか。
これが日本風だ、自分だということが村囃しとは個人的にはあまり思わないのだが。
結局、明治以降さまざまな音楽が外国から流れ込んできて、それを皆取り入れてしまったんですが、それで日本古来のものが見えなくなってしまった。
われわれの世代も、アメリカンフォーク、カントリーフォークの強い影響を受け、それが身になっている部分があるわけで、それを抜け出すのが日本人の自分という考えもわからなくはないけども、何か影響を受けている自分が今の日本文化というような気もするのですが。まあいろいろですから。
商売の影響かとおいもいますが、最近のハロウィンブームも、キリスト教徒ではない日本人がやたらと熱狂するのもどうかと思われるのですが、まあここらがミーハーな日本人かと思うし、ここらが気楽に取り入れられてしまうということだと思うのですが。
だからアメリカンフォーク、カントリーフォークの影響があってもなんということはなく、歌われるのは日本語だし、という気もするのですが。まあ人それぞれ・・。
こだわるのは芸術をする人にはいいことだし・・。

1963年6月のアメリカビルボードのヒットチャートで「上を向いて歩こうが1位に。あれから50年か。以下中日新聞の記事からのダイジェスト及びレビュー。
****
イギリスBBCの放送関連ウエブサイト「世界を変えた二十曲」への米国人によるこの曲の書き込み「米国人がかつての敵国に対する態度を大きく見直すことになった曲だ。日本人がミステリアスない民族でなく自分たちと同じ美しく繊細な感情を表現できる人々なのを教えてくれた」
音楽プロデューサーでこの曲の全米ヒットの謎き取り組んでいる佐藤剛氏によると、
たまたま米キャピトルレコードのプロデューサー、デーブ・デクスター・ジュニアさん、ビートルズの米国デビューにもかかわった人が重要な役割を果たす。
佐藤さんの調査によると、カリフォルニア州の中部フレズノ市のラジオ局、かつて日本から大勢の移民が目指した土地。ある日系人がラジオ局に日本で発売されていたこの曲を持ちこんだ。DJが気にいってこの曲を何日か流したところ、フレズノ市一帯からリクエストが殺到した。日系人ばかりじゃなく日本語がわからない人もこの曲を聞きたがった。
最初に持ち込んだ日系人が誰だかはわからない。その後の展開は早い。デクスターさんの自叙伝によるとそのDJが全米ヒットの予感があるとデクスターさんに連絡した。
デクスターさんが気に入り全米ラジオ局で紹介したところ反応は上々。これを見て63年5月にシングル盤を発売し。そのわずか一カ月でチャート1位に輝いた。64年、百万枚を突破しゴールデンディスクを受賞した。
曲名を「スキヤキ」にしたのもデクスターさんだった。「スキヤキは米国人が知っている数少ない日本語の一つだったからだ」と記している。
なぜ米国人には意味のわからない日本語の歌がヒットしたのか。デクスターさんは「心地よいサウンド、口ずさみやすいポップス」「覚えやすいメロディ」と「坂本の切なくてメランコリックな歌声」と自叙伝で記している。
この曲を作詞した永六輔さんは、60年安保闘争で敗北した悲しみを表現したと言っているが、意味のわからないまでも曲全体の切なさは米国にも支持されたと言えヒットの背景になった。
佐藤さんは、ヒットの理由をエルビスプレスリーに影響された坂本さんの歌い方にもポイントがある。ワンテンポずらせて歌うことで絶妙なビート感を醸し出し、これが米国人の好むロックンロールにつながっていると分析する。
さらに独特な抑揚を加えた歌唱にも関係があると見る。「ケルト民謡、ヨーデルなども同じような声を使っている」「坂本さんの歌い方は人類全体的に伝えられた歌い方だ。ある種の懐かしさを感じさせ歌詞がわからなくても心に届く。」
同曲は米国で火がついた後、英国など欧州全体でもヒットした。
発売元のEMIミュージックジャパンによると同曲は最終的に七十カ国で販売され現在までの総売り上げ枚数は1千万枚を超えている。その後戦前のカバー「支那の夜」を出したが最高位五十位で終わった。
*****
個人的には最初に購入したシングル盤が「上を向いて歩こう」だった。懐かしの音楽を紹介する番組では必ず登場するあのジャケット。モノクロ写真。素朴だったな~。阪神大震災や、東北の大震災、津波、原発の事故による避難とか。大きい事件の中でこの曲が癒しになっているという。個人的にはジャズっぽいと思えるこの曲。しかし物悲しさも感じる曲想でもある。歌詞は暗めながらも前向きな意味合い。この微妙なマッチングが不思議な感動を与えるのだろうか。
ビーチボーイズのヒット曲「リトルホンダ」、
車、バイクのメーカーのホンダは1958年にミニバイク「スーパーカブ」を発売し翌年アメリカでも販売した。当初は大型バイクに押され売れなかったが、バイク店ではなく釣具店に置くと若者に人気が出てきた。
小さなカブで街を飛び出す楽しさを歌った「ビーチボーイズ」の1964年発売のアルバム収録曲「リトルホンダ」。
アメリカで売れたスーパーカブ、ホンダは新作バイクに「リトルホンダ」と名付け、66年から71年まで日本国内で販売した。
79年からビーチボーイズと交流のあるファンの中上さんは、2012年6月にホンダへ手紙を送った。
「ビーチボーイズデビュー50周年に何らかの気持ちを表現すれば彼らも喜ぶのではないでしょうか」。
ホンダは当時販売していたミニバイクの模型を作り、2012年のメンバーそろっての来日時には間に合わなかったが、2013年3月26日の東京でのライブの時にボーカルのマイク・ラブさん。ギターのブルース・ジョンストさんにそれぞれ手渡されたそうだ。
ライブ会場でマイク・ラブさんは「今日はホンダから最高のプレゼントをもらったんだぜ」舞台でご機嫌に叫んだそうだ。
ホンダでは残り三人のメンバーにも模型を作って送るという。
(以上中日新聞4月3日の記事を参考にしました)
車、バイクのメーカーのホンダは1958年にミニバイク「スーパーカブ」を発売し翌年アメリカでも販売した。当初は大型バイクに押され売れなかったが、バイク店ではなく釣具店に置くと若者に人気が出てきた。
小さなカブで街を飛び出す楽しさを歌った「ビーチボーイズ」の1964年発売のアルバム収録曲「リトルホンダ」。
アメリカで売れたスーパーカブ、ホンダは新作バイクに「リトルホンダ」と名付け、66年から71年まで日本国内で販売した。
79年からビーチボーイズと交流のあるファンの中上さんは、2012年6月にホンダへ手紙を送った。
「ビーチボーイズデビュー50周年に何らかの気持ちを表現すれば彼らも喜ぶのではないでしょうか」。
ホンダは当時販売していたミニバイクの模型を作り、2012年のメンバーそろっての来日時には間に合わなかったが、2013年3月26日の東京でのライブの時にボーカルのマイク・ラブさん。ギターのブルース・ジョンストさんにそれぞれ手渡されたそうだ。
ライブ会場でマイク・ラブさんは「今日はホンダから最高のプレゼントをもらったんだぜ」舞台でご機嫌に叫んだそうだ。
ホンダでは残り三人のメンバーにも模型を作って送るという。
(以上中日新聞4月3日の記事を参考にしました)