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主に山下達郎氏の記事を中心に
2003年に解散したバンド「たま」のドラマー石川さん。「たま」以前はアルバイトで食いつなぎながら東京都内のライブハウスで飛び入りのギターの弾き語りをしていた。弾き語りと言ってもギターコードは4つしか知らず、自作のシュールな詞をほぼ絶叫していたらしい。
そのころ高円寺のアパートで一人暮らしをしていた石川さんは燃えないゴミの回収日にまだ使えそうなごみを物色していた。そしてそのゴミの中からスネアドラムを持ち帰った。その拾い物のおかげでバンドでパーカッションを受け持つ役割が決まってしまった。
今はない木造モルタルアパートの2階の石川さんの部屋には当時ライブハウスで親密になったアングラ系のミュージシャン達が勝手気ままにたむろするたまり場と化していた。
「たま」のメンバーとなる柳原陽一郎さんと知久寿焼さんもしょっちゅう石川さんのアパートの部屋に入り浸っていた。
知久さん「柳原さんと曲作りながら、退屈するとマタタビを使って猫釣りとかやっていた。バンド名はおばあさんとか猫の名前に「たま」っているのがあるからそれでいいんじゃないという決め方だった」

劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチさんは87年に自身が主催するインディーズのレコードレーベルに送られてきた「たま」のデモテープを聴き仰天したという。
「人の心の根っこにある原風景のような強烈な世界観が匂ってきた。売れるとは思わなかったけどすぐにレコードを出したくなった。」
「たま」は89年TBS系の「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称イカ天)に初登場した。5週連続勝ちぬくとメジャーデビューへ近づける。しかしメンバーにはそんな大それた野心はなかった。
石川浩司さん「地方にいるマニアックな音楽好きな人たちにも気づいてもらいたい。ただそれだけのつもりで出ることにしました」
知久寿焼さん「似たようなバンドがテレビに出ちゃうと僕たちが二番煎じに思われる」
消極的な意見だったが、「たま」は5週連続勝ちぬいてしまう。

審査員だった萩原健太氏
「彼らの演奏は音が鳴っていない時までグルーブ(躍動感)がありました」
ただ萩原さんは彼らのキャラクターが可愛いと評され、大衆にもてはやされ始めたことを憂えていた。
「聴く側に勘違いさせる切り口がどれだけあるかがヒットにつながる要素だけど、そのための彼らの毒がどんどん抜けて余計なものを背負い込んでしまったら不幸になると心配しましたね」
ケラさんのインディーズレーベル「ナゴムレコード」では「たま」のアナログ盤LPレコードを追加プレスして完売
。抱えていた借金も丸ごと帳消しになったという。

この曲の作者、柳原陽一郎さんは「たま」の音楽が大衆の感覚となぜ共振したのかいまだに不思議としか思えないんだという」
NHK紅白出場はメンバー4人ともまるでときめくことがなかったが「レコード会社の担当者に『おれたちの夢を壊さないでくれ』と懇願されたんです。」

石川さんは人気を過信しないよう自戒していたという「僕らの音楽は本来番人に受け入れられるものではないから、この一過性のブームに流されずに落ち着いていようと、4人で常に話し合っていました。そしたら思った以上に一過性だったんですけどね」

「現象」の主役から引きずりおろされかけていた92年には4人は事務所から独立し、500万ずつ出し合って東京郊外の武蔵村山市に自前のスタジオをこしらえていた。音楽活動を諦めないためのアジトのようなものだった。堅実な身のこなしで享楽をむさぼったバブルの次回から遠ざかっていられたのである。
離れ離れになった今も4人はそれぞれの「悲しい気持ち」を歌っている。

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「たま」解散後、メンバーの石川浩司さんと知久寿焼さんは「パスカルズ」として活動。友部正人氏との共演で散見。
たま・・・あっという間に消えたと思われたたま。しかし本来マイナーなにおいを残したままの彼らは、今現在が彼ららしい活動時期ということなのだろうか。記事にも書かれたとおり、あるいは単に変わった音楽として、でも何かセンチな鋭い面もある「さよなら人類」がバブル期の終焉を予感させたのかもしれない。不安な感じを常に内包していたのかな…バブル期。
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