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主に山下達郎氏の記事を中心に


今では若い人にはもうわからないだろう、寺尾聰さんはあの民芸の俳優、宇野重吉さんの息子さんで、60年代はGSグループ。「ザ・サベージ」のメンバーだった。後に俳優として石原プロに所属し、TVドラマ「西部警察」などに出演する。

TBSの音楽番組「ザ・ベストテン」では12週連続で1位となり、番組内で記念シートが作られた。

このころから音楽活動に専念したい意欲が強くなり石原プロを離れる。ただその後再び黒澤明監督に重宝され、巨匠の晩年の名作に出演する。その後は、映画、TVドラマと活躍している。最近は渋さを増した演技で評価されている。音楽活動は俳優活動の合間を見ての活動となったよう。

「ルビーの指輪」(松本隆:作詞)
発売当時の寺尾さんの所属会社東芝の若きディレクターたちと共同して作り上げた作品。ポップなAORであり、GS時代のイメージを残している。名作。そして同時にリリースされているアルバム「リフレクションズ」の収録曲「シャドーシティ」「出航(さすらい)」もヒットする。

個人的には寺尾さん、決して歌唱力は抜群ではないのですが、軽く歌う独特な味。何となく父親譲りの飄々とした感じを楽曲でも表わしているような気がする。

朝日新聞の記事を参考にしました。

画像は2006年にかつてのアルバム「リフレクションズ」を全曲セルフカバー(再録音)しリリースした「リ・クール・リフレクションズ」
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1991年バンドとしてデビューしたZARD。しかし実態はボーカルと作詞の坂井泉水のバンドでバックのメンバーは入れ替わりが多く固定してはいない。
負けないでは1993年の作品。作曲は織田哲郎。160万枚を売り上げた。

坂井さんは神奈川県で生まれ、レースクィーンやカラオケクィーンをしていたが23歳で受けたバックコーラスのオーディションを受けたことが転機となる。当時審査員をして後にZARDのプロディーサーになった長戸大幸さんに見出された。

妥協をしない人だったという、うたの入れ直しで納得いくまで20回も30回もやりなおしたそうだ。
テレビ出演やライブは極端に少なかったが所属会社ビーイングの高野昭彦さんは「テレビに出なかったのは、彼女が極端に緊張してしまい。よさが伝わらないと考えたから」「それに何より曲作りに力を傾けていたから」

2006年4月がんが見つかる、それでもレコーディングにやってきたそうだ。転移があり入退院を繰り返す。そして2007年5月病院内の事故で亡くなる。40歳だった。

ビーイングのビルで4月に開かれていた回顧展。多くのファンでにぎわった。その中の中年男性「心を開いて」の歌詞の中で「人と付き合うことが苦手な男性」を思うくだりが出てきた。「私も人付き合いが得意じゃない。内気で目立たない。そんな存在にも坂井さんは目を向けていたのだと気付いたのです」
(以上2012年4月の朝日新聞の記事より)

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ミュージックステーションで一度見たことがあります。記憶は少ないのですが。後から放送されたライブのビデオでのMCも言葉が少なく聴衆のもっと話してというような発言に坂井さんは照れていたような記憶がありますが。レースクィーンをしていた割には・・・まあもともとそういう人なのかなー。

病気が治って再活動していたらまたどんな曲を書いたのでしょうか。早世は残念。
北海道帯広から1951年に上京。双子の長内栄子さん、敏子さん。姉妹は浅草で流しや、料亭のお座敷に出る余興をしながら一家の生計を支えた。
59年芸名を並木栄子、葉子として「浅草姉妹」でデビュー。60年に芸名を一般公募し、美空ひばりにあやかり「こまどり姉妹」に変えた。61年の「ソーラン渡り鳥」は姉妹の最大ヒットとなった。
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73歳(2011年現在)の今でも温泉地での歌謡ショーに出演するふたり。
幼い時、炭坑夫として北海道を渡り歩いた父親は戦後ほどなくして胸を病み、親類を頼って北海道の銭函に落ち着いた。駅前旅館の2階に間借りしたが家賃が払えず1950年一家は夜逃げをする。
夜行列車の旅。父親は馬市が開かれる釧路の大楽毛(おおたのしげ)で民謡の得意な妻に門付けをさせるようとするが実際にうけたのは一緒に連れて行った双子の姉妹だった。二人は美空ひばりの「悲しき口笛」を歌った。「そしたら大人たちに取り囲まれて次々とお金をくれるので「ああ今日はこれでごはんが食べられる」と安心したんです」敏子さん。

「人の欲の力は計り知れません。子供心にお金の値打を身にしみて思い知ると、死に物狂いで歌を勉強するようになっいてました。門付けは(別に)子供の旅芸人も回ってましたからね。あちらはプロ。先回りされると(私たちは)何も貰えなくなる。試練を克服しないと先へ進めない。この世の定めをたたき込まれました」

本来ならまだ小学校の姉妹が収入源になった一家は、その年の冬、帯広へ流れ着く。そこで始めたのが、ネオン街を練り歩き、借り物の三味線で父親が伴奏し、姉妹が歌う、民謡や流行歌を酒場の酔客に聞かせる「流し」の修業だった。

帯広でたった3カ月暮らしただけで一家が上京することになったのは。歌の力試しの野心が芽生えた姉妹の決断だった。かつて歌うか歌わないかの選択が、生きるか死ぬかのそれと同義だったその歌で、歌わずに生きていける安穏な人生の手がかりがつかめそうだった。

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そして「ソーラン渡り鳥」の大ヒットにつながってゆくのだが。大人気となった姉妹の地方公演のステージで、敏子さんがストーカーと化したファンに包丁で刺される事件が起きた。そしてその後の事務所の税金滞納、相次いだ両親の病死、敏子さんの末期がんの宣告。

事務所は、敏子さんのがんの手術の後解散し、こまどり姉妹の引退となりますが、その時のごたごたで借金を背負います。
1983年に地方の観光旅館でショーをしないかという誘いがあり1カ月公演を行います。それが縁で懐メロ番組から出演依頼がありカムバックすることになります。その後クラブの経営、そして喫茶店の経営をされていたそうですが。今は閉店されたそうです。

「私たち子供のころのどん底が人生の基本なので何が起ころうとも根に持つことなく乗り越えてこられたんです。そういう意味では私たちラッキーなのよ」栄子さんは屈託なくそういうのだ。

現在、姉妹は当j京の浅草周辺でつかず離れすそれぞれ一人で暮らしている。一日の終わりに一度だけ携帯で平穏無事を確かめあうと心安らかに眠るのだ。
(以上朝日新聞「うたの旅人」の記事。北海道新聞の2005年の連載を参考にしました)

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昔ですが、今も続く「題名のない音楽会」に出演されたことがあり、その時のMC、黛敏郎氏の解説では二人の歌、演歌なので二人とも同じメロディを歌うのですが、二人の節回しが微妙に違い。このあたりが絶妙のハーモニーとなるというような解説をされていた記憶があります。独特なこまどり姉妹。

そしてなんにしても昔の興業というシステムの不完全さに翻弄された人生だったのかな。まあ今でも独特な世界でありますが・・(最近の某演歌歌手の騒動を思うと・・)
2003年に解散したバンド「たま」のドラマー石川さん。「たま」以前はアルバイトで食いつなぎながら東京都内のライブハウスで飛び入りのギターの弾き語りをしていた。弾き語りと言ってもギターコードは4つしか知らず、自作のシュールな詞をほぼ絶叫していたらしい。
そのころ高円寺のアパートで一人暮らしをしていた石川さんは燃えないゴミの回収日にまだ使えそうなごみを物色していた。そしてそのゴミの中からスネアドラムを持ち帰った。その拾い物のおかげでバンドでパーカッションを受け持つ役割が決まってしまった。
今はない木造モルタルアパートの2階の石川さんの部屋には当時ライブハウスで親密になったアングラ系のミュージシャン達が勝手気ままにたむろするたまり場と化していた。
「たま」のメンバーとなる柳原陽一郎さんと知久寿焼さんもしょっちゅう石川さんのアパートの部屋に入り浸っていた。
知久さん「柳原さんと曲作りながら、退屈するとマタタビを使って猫釣りとかやっていた。バンド名はおばあさんとか猫の名前に「たま」っているのがあるからそれでいいんじゃないという決め方だった」

劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチさんは87年に自身が主催するインディーズのレコードレーベルに送られてきた「たま」のデモテープを聴き仰天したという。
「人の心の根っこにある原風景のような強烈な世界観が匂ってきた。売れるとは思わなかったけどすぐにレコードを出したくなった。」
「たま」は89年TBS系の「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称イカ天)に初登場した。5週連続勝ちぬくとメジャーデビューへ近づける。しかしメンバーにはそんな大それた野心はなかった。
石川浩司さん「地方にいるマニアックな音楽好きな人たちにも気づいてもらいたい。ただそれだけのつもりで出ることにしました」
知久寿焼さん「似たようなバンドがテレビに出ちゃうと僕たちが二番煎じに思われる」
消極的な意見だったが、「たま」は5週連続勝ちぬいてしまう。

審査員だった萩原健太氏
「彼らの演奏は音が鳴っていない時までグルーブ(躍動感)がありました」
ただ萩原さんは彼らのキャラクターが可愛いと評され、大衆にもてはやされ始めたことを憂えていた。
「聴く側に勘違いさせる切り口がどれだけあるかがヒットにつながる要素だけど、そのための彼らの毒がどんどん抜けて余計なものを背負い込んでしまったら不幸になると心配しましたね」
ケラさんのインディーズレーベル「ナゴムレコード」では「たま」のアナログ盤LPレコードを追加プレスして完売
。抱えていた借金も丸ごと帳消しになったという。

この曲の作者、柳原陽一郎さんは「たま」の音楽が大衆の感覚となぜ共振したのかいまだに不思議としか思えないんだという」
NHK紅白出場はメンバー4人ともまるでときめくことがなかったが「レコード会社の担当者に『おれたちの夢を壊さないでくれ』と懇願されたんです。」

石川さんは人気を過信しないよう自戒していたという「僕らの音楽は本来番人に受け入れられるものではないから、この一過性のブームに流されずに落ち着いていようと、4人で常に話し合っていました。そしたら思った以上に一過性だったんですけどね」

「現象」の主役から引きずりおろされかけていた92年には4人は事務所から独立し、500万ずつ出し合って東京郊外の武蔵村山市に自前のスタジオをこしらえていた。音楽活動を諦めないためのアジトのようなものだった。堅実な身のこなしで享楽をむさぼったバブルの次回から遠ざかっていられたのである。
離れ離れになった今も4人はそれぞれの「悲しい気持ち」を歌っている。

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「たま」解散後、メンバーの石川浩司さんと知久寿焼さんは「パスカルズ」として活動。友部正人氏との共演で散見。
たま・・・あっという間に消えたと思われたたま。しかし本来マイナーなにおいを残したままの彼らは、今現在が彼ららしい活動時期ということなのだろうか。記事にも書かれたとおり、あるいは単に変わった音楽として、でも何かセンチな鋭い面もある「さよなら人類」がバブル期の終焉を予感させたのかもしれない。不安な感じを常に内包していたのかな…バブル期。
三重県志摩半島にあるリゾート施設「合歓の郷」。そこの野外ホールで1970年ごろに「合歓ポピュラーフェスティバル」が開かれていた。
作曲家としてヒットメーカーの村井邦彦さん。弱冠24歳で著作権を管理する音楽出版社アルファミュージックを設立。その翌年のことだった。

村井氏「そのころ美空ひばりさんの持ち歌を別の歌手がカバーし、ひばりさんサイドが激怒するという事件があった。歌はだれのものかって話。歌は作り手のもので、多くの人に歌い継がれてこそ価値がある。それをはっきりさせたかった。」

作詞は、山上路夫、この歌の制作のやり取りで時間がかかり、東京から会場に車を飛ばして駆け付けた村井さんが、フォークグループ「赤い鳥」に楽譜を届けたのは開演2時間前。コーラスアレンジをその場で完成させるあわただしさだった。
「翼をください」は76年に発売、当時は名曲誕生の予感はなくシングル盤「竹田の子守唄」のB面扱いにすぎなかった。

赤い鳥は69年の全日本ライトミュージックコンテスト(LMC)で「竹田の子守唄」を歌いクランプりを獲得。デビューのきっかけに。
赤い鳥メンバーはリーダーの後藤悦治郎氏が結び付ける、後に結婚する平山泰代さんとデュエットで実家近くの尼崎でアマチュアのコンサートを行っていたが、ハーモニーに厚みを持たせようと別グループだった山本俊彦さんと新居(のちの山本)潤子を誘う。後に大川茂さんも加わりすでに仕事を持っていて、グループのプロ化を渋っていたメンバーを村井氏が口説いた。

赤い鳥は当時の代表的フォークグループとなり人気を博するが、74年で音楽の方向性の違いから解散する。

解散後はフォークソングを中心とする「紙ふうせん」(後藤悦治郎・平山泰代)。ポップミュージックを志向する「ハイファイセット」(山本俊彦、新居順子、大川茂)に分かれてそれぞれの活動に。

「翼をください」はその後76年以後音楽の教科書に採用され、国民ソングと言われるようになる。

紙ふうせんの二人は95年の阪神大震災の被災地で歌うことによりこの歌の良さを再発見する。

そして94年のハイファイセット解散後ソロ活動となった山本潤子さんは97年のサッカーワールドカップで日本のサポータの大合唱で「癒しの歌と思っていたのに応援歌にもなるんですね」、

潤子さん、赤い鳥解散後は歌唱を避けていたこの歌を録音し直しステージでも歌い始めた。
(以上朝日新聞の記事を参考にしました)

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この歌がこれだけ歌われるとは、やはり教科書が大きいのかな。日本のフォークを代表するような曲になったのか。歌謡フォークっぽい作品なんだけど。出来はいいと思う。
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