山下達郎アコースティックミニライブ特集
ヴォーカル&アコースティックギター;山下達郎、キーボード;難波弘之、ベース;伊藤広規
Part1.(6月15日放送)
[01]BOMBER/山下達郎 "GO AHEAD" 78
[02]ドーナツ・ソング/山下達郎 "COZY" '98
[03]PAPER DOLL/山下達郎 "GO AHEAD" 78
[04]FOREVER MINE/山下達郎 "SONORITE" '04
[05]LA VIE EN ROSE~バラ色の人生/エディット・ピアフ(歌;山下達郎) '08
[06]CHAPEL OF DREAMS/B、MYLES (歌;山下達郎)"ON THE STREET CORNER2" '86
Part2.(6月22日放送)
[07] SMOKE GETS IN YOUR EYES(煙が目にしみる)/ Word by Otto Harbach、Music by Jerome kern(歌;山下達郎)"SEASON'S GREETINGS" '93
[08] WHAT'S GOIN' ON/ Marvin Gaye etc(歌;山下達郎)
[09] 蒼氓/山下達郎 "僕の中の少年" '88
[10] さよなら夏の日/山下達郎 "ARTISAN" '91
[11] RIDE ON TIME/山下達郎 '80
ニューシングル「ずっと一緒さ」と山下達郎サンデーソングブック800回記念として行われた無料ライブをほぼ完全版で放送。ヴォーカル(ギター)、キーボード、ベースの3名で行われるアコースティックミニライブは以前は3年毎に行われていたそうだが、ライブはこのところご無沙汰だったんです。Part2のMCでは秋にライブをやる予定とか。今後は1年ごとにライブをしていきたいという話だった。
Part3(6月29日放送)
インフォーメーション
佐橋佳幸ソロアルバム"TRUST ME(DELUXE EDITION)" '93
リマスター再発('08)アルバムより
Zocalo(ソカロ)
ライブよりアンコール(バックは難波弘之&伊藤広規+カラオケ)
[12]ずっと一緒さ/山下達郎
(トーク)昔、番組の企画で行きたくないカラオケ店でこの歌を歌わされたのですが、それがキーが2音低く、散々の出来でたまたま点数が出る機械で18点が出て、機械のコメント「もっと作った人の気持ちになって歌いましょう」(爆)
まりやさん登場
[13]LET IT BE ME/Word by PIERRE DELANOE/CURTIS MANN/Music byGILBEART BECAUD
/山下達郎&竹内まりや
[14]クリスマス・イブ/山下達郎
(終了)
終演後の観客にインタビュー
伊藤広規インタビュー
難波弘之インタビュー
NG集;コーヒー・ブルース/高田渡~サンフランシスコ・ベイ・
ブルース/Jesse Fuller(武蔵野たんぽぽ団)(山下達郎 (08/05/10 大阪夜の部) )
おまけ2003年ミニアコースティックライブより、2000tの雨~YOUR EYES/山下達郎
(03/05/11 読売ホール)
主に山下達郎氏の記事を中心に
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今では若い人にはもうわからないだろう、寺尾聰さんはあの民芸の俳優、宇野重吉さんの息子さんで、60年代はGSグループ。「ザ・サベージ」のメンバーだった。後に俳優として石原プロに所属し、TVドラマ「西部警察」などに出演する。
TBSの音楽番組「ザ・ベストテン」では12週連続で1位となり、番組内で記念シートが作られた。
このころから音楽活動に専念したい意欲が強くなり石原プロを離れる。ただその後再び黒澤明監督に重宝され、巨匠の晩年の名作に出演する。その後は、映画、TVドラマと活躍している。最近は渋さを増した演技で評価されている。音楽活動は俳優活動の合間を見ての活動となったよう。
「ルビーの指輪」(松本隆:作詞)
発売当時の寺尾さんの所属会社東芝の若きディレクターたちと共同して作り上げた作品。ポップなAORであり、GS時代のイメージを残している。名作。そして同時にリリースされているアルバム「リフレクションズ」の収録曲「シャドーシティ」「出航(さすらい)」もヒットする。
個人的には寺尾さん、決して歌唱力は抜群ではないのですが、軽く歌う独特な味。何となく父親譲りの飄々とした感じを楽曲でも表わしているような気がする。
朝日新聞の記事を参考にしました。
画像は2006年にかつてのアルバム「リフレクションズ」を全曲セルフカバー(再録音)しリリースした「リ・クール・リフレクションズ」
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1991年バンドとしてデビューしたZARD。しかし実態はボーカルと作詞の坂井泉水のバンドでバックのメンバーは入れ替わりが多く固定してはいない。
負けないでは1993年の作品。作曲は織田哲郎。160万枚を売り上げた。
坂井さんは神奈川県で生まれ、レースクィーンやカラオケクィーンをしていたが23歳で受けたバックコーラスのオーディションを受けたことが転機となる。当時審査員をして後にZARDのプロディーサーになった長戸大幸さんに見出された。
妥協をしない人だったという、うたの入れ直しで納得いくまで20回も30回もやりなおしたそうだ。
テレビ出演やライブは極端に少なかったが所属会社ビーイングの高野昭彦さんは「テレビに出なかったのは、彼女が極端に緊張してしまい。よさが伝わらないと考えたから」「それに何より曲作りに力を傾けていたから」
2006年4月がんが見つかる、それでもレコーディングにやってきたそうだ。転移があり入退院を繰り返す。そして2007年5月病院内の事故で亡くなる。40歳だった。
ビーイングのビルで4月に開かれていた回顧展。多くのファンでにぎわった。その中の中年男性「心を開いて」の歌詞の中で「人と付き合うことが苦手な男性」を思うくだりが出てきた。「私も人付き合いが得意じゃない。内気で目立たない。そんな存在にも坂井さんは目を向けていたのだと気付いたのです」
(以上2012年4月の朝日新聞の記事より)
****
ミュージックステーションで一度見たことがあります。記憶は少ないのですが。後から放送されたライブのビデオでのMCも言葉が少なく聴衆のもっと話してというような発言に坂井さんは照れていたような記憶がありますが。レースクィーンをしていた割には・・・まあもともとそういう人なのかなー。
病気が治って再活動していたらまたどんな曲を書いたのでしょうか。早世は残念。
負けないでは1993年の作品。作曲は織田哲郎。160万枚を売り上げた。
坂井さんは神奈川県で生まれ、レースクィーンやカラオケクィーンをしていたが23歳で受けたバックコーラスのオーディションを受けたことが転機となる。当時審査員をして後にZARDのプロディーサーになった長戸大幸さんに見出された。
妥協をしない人だったという、うたの入れ直しで納得いくまで20回も30回もやりなおしたそうだ。
テレビ出演やライブは極端に少なかったが所属会社ビーイングの高野昭彦さんは「テレビに出なかったのは、彼女が極端に緊張してしまい。よさが伝わらないと考えたから」「それに何より曲作りに力を傾けていたから」
2006年4月がんが見つかる、それでもレコーディングにやってきたそうだ。転移があり入退院を繰り返す。そして2007年5月病院内の事故で亡くなる。40歳だった。
ビーイングのビルで4月に開かれていた回顧展。多くのファンでにぎわった。その中の中年男性「心を開いて」の歌詞の中で「人と付き合うことが苦手な男性」を思うくだりが出てきた。「私も人付き合いが得意じゃない。内気で目立たない。そんな存在にも坂井さんは目を向けていたのだと気付いたのです」
(以上2012年4月の朝日新聞の記事より)
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ミュージックステーションで一度見たことがあります。記憶は少ないのですが。後から放送されたライブのビデオでのMCも言葉が少なく聴衆のもっと話してというような発言に坂井さんは照れていたような記憶がありますが。レースクィーンをしていた割には・・・まあもともとそういう人なのかなー。
病気が治って再活動していたらまたどんな曲を書いたのでしょうか。早世は残念。
北海道帯広から1951年に上京。双子の長内栄子さん、敏子さん。姉妹は浅草で流しや、料亭のお座敷に出る余興をしながら一家の生計を支えた。
59年芸名を並木栄子、葉子として「浅草姉妹」でデビュー。60年に芸名を一般公募し、美空ひばりにあやかり「こまどり姉妹」に変えた。61年の「ソーラン渡り鳥」は姉妹の最大ヒットとなった。
****
73歳(2011年現在)の今でも温泉地での歌謡ショーに出演するふたり。
幼い時、炭坑夫として北海道を渡り歩いた父親は戦後ほどなくして胸を病み、親類を頼って北海道の銭函に落ち着いた。駅前旅館の2階に間借りしたが家賃が払えず1950年一家は夜逃げをする。
夜行列車の旅。父親は馬市が開かれる釧路の大楽毛(おおたのしげ)で民謡の得意な妻に門付けをさせるようとするが実際にうけたのは一緒に連れて行った双子の姉妹だった。二人は美空ひばりの「悲しき口笛」を歌った。「そしたら大人たちに取り囲まれて次々とお金をくれるので「ああ今日はこれでごはんが食べられる」と安心したんです」敏子さん。
「人の欲の力は計り知れません。子供心にお金の値打を身にしみて思い知ると、死に物狂いで歌を勉強するようになっいてました。門付けは(別に)子供の旅芸人も回ってましたからね。あちらはプロ。先回りされると(私たちは)何も貰えなくなる。試練を克服しないと先へ進めない。この世の定めをたたき込まれました」
本来ならまだ小学校の姉妹が収入源になった一家は、その年の冬、帯広へ流れ着く。そこで始めたのが、ネオン街を練り歩き、借り物の三味線で父親が伴奏し、姉妹が歌う、民謡や流行歌を酒場の酔客に聞かせる「流し」の修業だった。
帯広でたった3カ月暮らしただけで一家が上京することになったのは。歌の力試しの野心が芽生えた姉妹の決断だった。かつて歌うか歌わないかの選択が、生きるか死ぬかのそれと同義だったその歌で、歌わずに生きていける安穏な人生の手がかりがつかめそうだった。
***
そして「ソーラン渡り鳥」の大ヒットにつながってゆくのだが。大人気となった姉妹の地方公演のステージで、敏子さんがストーカーと化したファンに包丁で刺される事件が起きた。そしてその後の事務所の税金滞納、相次いだ両親の病死、敏子さんの末期がんの宣告。
事務所は、敏子さんのがんの手術の後解散し、こまどり姉妹の引退となりますが、その時のごたごたで借金を背負います。
1983年に地方の観光旅館でショーをしないかという誘いがあり1カ月公演を行います。それが縁で懐メロ番組から出演依頼がありカムバックすることになります。その後クラブの経営、そして喫茶店の経営をされていたそうですが。今は閉店されたそうです。
「私たち子供のころのどん底が人生の基本なので何が起ころうとも根に持つことなく乗り越えてこられたんです。そういう意味では私たちラッキーなのよ」栄子さんは屈託なくそういうのだ。
現在、姉妹は当j京の浅草周辺でつかず離れすそれぞれ一人で暮らしている。一日の終わりに一度だけ携帯で平穏無事を確かめあうと心安らかに眠るのだ。
(以上朝日新聞「うたの旅人」の記事。北海道新聞の2005年の連載を参考にしました)
****
昔ですが、今も続く「題名のない音楽会」に出演されたことがあり、その時のMC、黛敏郎氏の解説では二人の歌、演歌なので二人とも同じメロディを歌うのですが、二人の節回しが微妙に違い。このあたりが絶妙のハーモニーとなるというような解説をされていた記憶があります。独特なこまどり姉妹。
そしてなんにしても昔の興業というシステムの不完全さに翻弄された人生だったのかな。まあ今でも独特な世界でありますが・・(最近の某演歌歌手の騒動を思うと・・)
59年芸名を並木栄子、葉子として「浅草姉妹」でデビュー。60年に芸名を一般公募し、美空ひばりにあやかり「こまどり姉妹」に変えた。61年の「ソーラン渡り鳥」は姉妹の最大ヒットとなった。
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73歳(2011年現在)の今でも温泉地での歌謡ショーに出演するふたり。
幼い時、炭坑夫として北海道を渡り歩いた父親は戦後ほどなくして胸を病み、親類を頼って北海道の銭函に落ち着いた。駅前旅館の2階に間借りしたが家賃が払えず1950年一家は夜逃げをする。
夜行列車の旅。父親は馬市が開かれる釧路の大楽毛(おおたのしげ)で民謡の得意な妻に門付けをさせるようとするが実際にうけたのは一緒に連れて行った双子の姉妹だった。二人は美空ひばりの「悲しき口笛」を歌った。「そしたら大人たちに取り囲まれて次々とお金をくれるので「ああ今日はこれでごはんが食べられる」と安心したんです」敏子さん。
「人の欲の力は計り知れません。子供心にお金の値打を身にしみて思い知ると、死に物狂いで歌を勉強するようになっいてました。門付けは(別に)子供の旅芸人も回ってましたからね。あちらはプロ。先回りされると(私たちは)何も貰えなくなる。試練を克服しないと先へ進めない。この世の定めをたたき込まれました」
本来ならまだ小学校の姉妹が収入源になった一家は、その年の冬、帯広へ流れ着く。そこで始めたのが、ネオン街を練り歩き、借り物の三味線で父親が伴奏し、姉妹が歌う、民謡や流行歌を酒場の酔客に聞かせる「流し」の修業だった。
帯広でたった3カ月暮らしただけで一家が上京することになったのは。歌の力試しの野心が芽生えた姉妹の決断だった。かつて歌うか歌わないかの選択が、生きるか死ぬかのそれと同義だったその歌で、歌わずに生きていける安穏な人生の手がかりがつかめそうだった。
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そして「ソーラン渡り鳥」の大ヒットにつながってゆくのだが。大人気となった姉妹の地方公演のステージで、敏子さんがストーカーと化したファンに包丁で刺される事件が起きた。そしてその後の事務所の税金滞納、相次いだ両親の病死、敏子さんの末期がんの宣告。
事務所は、敏子さんのがんの手術の後解散し、こまどり姉妹の引退となりますが、その時のごたごたで借金を背負います。
1983年に地方の観光旅館でショーをしないかという誘いがあり1カ月公演を行います。それが縁で懐メロ番組から出演依頼がありカムバックすることになります。その後クラブの経営、そして喫茶店の経営をされていたそうですが。今は閉店されたそうです。
「私たち子供のころのどん底が人生の基本なので何が起ころうとも根に持つことなく乗り越えてこられたんです。そういう意味では私たちラッキーなのよ」栄子さんは屈託なくそういうのだ。
現在、姉妹は当j京の浅草周辺でつかず離れすそれぞれ一人で暮らしている。一日の終わりに一度だけ携帯で平穏無事を確かめあうと心安らかに眠るのだ。
(以上朝日新聞「うたの旅人」の記事。北海道新聞の2005年の連載を参考にしました)
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昔ですが、今も続く「題名のない音楽会」に出演されたことがあり、その時のMC、黛敏郎氏の解説では二人の歌、演歌なので二人とも同じメロディを歌うのですが、二人の節回しが微妙に違い。このあたりが絶妙のハーモニーとなるというような解説をされていた記憶があります。独特なこまどり姉妹。
そしてなんにしても昔の興業というシステムの不完全さに翻弄された人生だったのかな。まあ今でも独特な世界でありますが・・(最近の某演歌歌手の騒動を思うと・・)
ジャズドラマー森山威男氏。大学を出た後日本フィルから内定をもらっていたのでクラシックの世界へ入るつもりだった。そんな中、大学の友人に熱心に誘われてジャズをたたき始めた。ライブを重ねて徐々にジャズの自由さにひかれた。当時渡辺貞夫氏がアメリカから帰国して評判になっていたので聞きにいったら、森山さんにはバンドのピアニストの山下洋輔氏の演奏に惹かれたそうだ。
自由さに惹かれて力いっぱい演奏する山下洋輔トリオのドラマーになった。当時はフォービートもまともにたたけなかったが一生懸命さだけは人一倍。山下さんが目指したフリーズに私の破天荒な演奏は一番似合った。
テナーサック氏の坂田明氏も合流した。
あの音楽をジャズと言っていいかな。たたき方や反応。すべてにおいて手本はなく。一つ一つを感じたまま作り上げた。模索するうち山下さんとは自然と合うようになった。指のスピードを見て、聴いて音に込めた思いを瞬時に感じ取る。常に音がピタッと合った。あの感覚は経験がなせるもの。今も昔もトリオで組んだ時だけだと思う。
山下トリオを退団したのは:
最高だったからこそ将来に不安を覚えた。有名になって金も入ってきて。いつまでこの生活が続けられるのか先を考えると空しくなった。どんなに成功しても失敗しても人間は一人分の人生しか歩めない。
次々と公演が決まり未来が見えてしまったことも魅力を失うきっかけだった。「ただ音楽をやるだけ」になっている自分が怖くなった。ドラムをたたかされている感覚。
脱退後は二年近くドラムをたたかなかった。けどやっぱり音楽が好きだった。いろんな人から「また叩いてよ」と声をかけられまた新しいメンバーと少しずつ活動を始めた。しかし山下トリオの時のようなすべてをささげるような演奏はやらなくなった。
小中学校での出前演奏について;子供が生まれた絵から名古屋に移り住み喫茶店を経営した。また二年間スチックを握らなかった。その後岐阜県の多治見市に引っ越し。さらに2001年妻の実家のある隣の可児市に移り住んだ。
音楽をを志した原点の小学校のころに聞いたジャズの生演奏がある。市関係者から是非に児童に生演奏を聴かせてと頼まれやってやろうとなった。
大人が真剣に何かに打ち込む姿を見せることが子供たちの心を豊かにする。
人生にはなぜという疑問が必ず出てくる。その時にはなんとかこと得を得ようと真剣に考え続けることそうすれば間違っても自分の人生を歩んだことになる。悔いは生まれない。
今後は原点復帰。フリーのドラムをたたくミュージシャンに戻るつもり。
****
そうかそういうことでトリオをやめたのか。一時期山下トリオはだ人気だったが。今はジャズそのものが下火というか忘れ去られてきている。まあいいじゃないか好きな人が聴けばずっと続くし・・・。森山さんも有為転変しましたね。世代が近い(森山さんはちょっと年上)。まだ若干体は動く私どもはどうするのか・
自由さに惹かれて力いっぱい演奏する山下洋輔トリオのドラマーになった。当時はフォービートもまともにたたけなかったが一生懸命さだけは人一倍。山下さんが目指したフリーズに私の破天荒な演奏は一番似合った。
テナーサック氏の坂田明氏も合流した。
あの音楽をジャズと言っていいかな。たたき方や反応。すべてにおいて手本はなく。一つ一つを感じたまま作り上げた。模索するうち山下さんとは自然と合うようになった。指のスピードを見て、聴いて音に込めた思いを瞬時に感じ取る。常に音がピタッと合った。あの感覚は経験がなせるもの。今も昔もトリオで組んだ時だけだと思う。
山下トリオを退団したのは:
最高だったからこそ将来に不安を覚えた。有名になって金も入ってきて。いつまでこの生活が続けられるのか先を考えると空しくなった。どんなに成功しても失敗しても人間は一人分の人生しか歩めない。
次々と公演が決まり未来が見えてしまったことも魅力を失うきっかけだった。「ただ音楽をやるだけ」になっている自分が怖くなった。ドラムをたたかされている感覚。
脱退後は二年近くドラムをたたかなかった。けどやっぱり音楽が好きだった。いろんな人から「また叩いてよ」と声をかけられまた新しいメンバーと少しずつ活動を始めた。しかし山下トリオの時のようなすべてをささげるような演奏はやらなくなった。
小中学校での出前演奏について;子供が生まれた絵から名古屋に移り住み喫茶店を経営した。また二年間スチックを握らなかった。その後岐阜県の多治見市に引っ越し。さらに2001年妻の実家のある隣の可児市に移り住んだ。
音楽をを志した原点の小学校のころに聞いたジャズの生演奏がある。市関係者から是非に児童に生演奏を聴かせてと頼まれやってやろうとなった。
大人が真剣に何かに打ち込む姿を見せることが子供たちの心を豊かにする。
人生にはなぜという疑問が必ず出てくる。その時にはなんとかこと得を得ようと真剣に考え続けることそうすれば間違っても自分の人生を歩んだことになる。悔いは生まれない。
今後は原点復帰。フリーのドラムをたたくミュージシャンに戻るつもり。
****
そうかそういうことでトリオをやめたのか。一時期山下トリオはだ人気だったが。今はジャズそのものが下火というか忘れ去られてきている。まあいいじゃないか好きな人が聴けばずっと続くし・・・。森山さんも有為転変しましたね。世代が近い(森山さんはちょっと年上)。まだ若干体は動く私どもはどうするのか・
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