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追悼】
大滝詠一さん そして彼は生きる伝説に レーベルプロデューサー・三浦光紀
2014.1.14 12:02 (1/2ページ)
1970年8月、「日本語のロックの開祖」として伝説になった「はっぴいえんど」のデビュー盤レコードに僕が針を落とした途端、それまでの日本人歌手にはない独特の歌唱法で「春よ来い」と歌う異能のボーカリストに衝撃をうけました。それが大滝詠一さんでした。
その後、僕はプロデューサーとして「はっぴいえんど」のアメリカ録音などを通じ、大滝さんと仕事をしました。そして彼が作詞家、作曲家、編曲家、ボーカリスト、さまざまな楽器のプレーヤー、サウンドエンジニア、音楽プロデューサーなどなど、アーティストとしてのすべての面において並外れた才能を持ってることを知るようになりました。
僕は当時の一部熱狂的なマニアに支持されていた「はっぴいえんど」の素晴らしさをより広く知ってもらうには、大滝さんのソロアルバムを出すことが一番の近道だと思い、大滝さんに話をもちかけました。そして72年4月、大滝さんのレコーディングが実現しました。古き良きアメリカンポップスのイディオム(慣用句)を、深い芸術的素養とユーモアのセンスで大滝流に変化させ、全く別次元の作品に仕上げてしまう手法、2チャンネルの録音が主流だった時代に16チャンネルの録音機材を駆使してサウンドを構築する仕事ぶりに圧倒されました。
最近は人前に出ることを極端に避け、亡くなる前は10年以上も作品を発表しませんでした。たまに電話で話すと、はっきりと心境を語ることはしませんでしたが、あらゆる音楽に精通し、自らに高いハードルを課していた人なので、自分が納得しないものは発表したくなかったのではないでしょうか。デカルトの「よく隠れることは、よく生きること」という言葉のように、その結果、彼は生きる伝説になりました。
日本のポップスのスタンダードを確立した巨人に出会えた幸運に感謝し、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。(談)
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以上は、ファーストアルバム「大瀧詠一」の話。(キング・ベルウッドより発売)
三浦光紀さんはキングレコード在籍当時全日本フォークジャンボリーに録音機材を持ち込みライブレコードを制作しました。またはっぴいえんどや小室等さんなどの多数のアーチストのレコードを制作しました。
その後は他レーベルに移籍。プロデューサー業を続けているようです。