主に山下達郎氏の記事を中心に
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1991年バンドとしてデビューしたZARD。しかし実態はボーカルと作詞の坂井泉水のバンドでバックのメンバーは入れ替わりが多く固定してはいない。
負けないでは1993年の作品。作曲は織田哲郎。160万枚を売り上げた。
坂井さんは神奈川県で生まれ、レースクィーンやカラオケクィーンをしていたが23歳で受けたバックコーラスのオーディションを受けたことが転機となる。当時審査員をして後にZARDのプロディーサーになった長戸大幸さんに見出された。
妥協をしない人だったという、うたの入れ直しで納得いくまで20回も30回もやりなおしたそうだ。
テレビ出演やライブは極端に少なかったが所属会社ビーイングの高野昭彦さんは「テレビに出なかったのは、彼女が極端に緊張してしまい。よさが伝わらないと考えたから」「それに何より曲作りに力を傾けていたから」
2006年4月がんが見つかる、それでもレコーディングにやってきたそうだ。転移があり入退院を繰り返す。そして2007年5月病院内の事故で亡くなる。40歳だった。
ビーイングのビルで4月に開かれていた回顧展。多くのファンでにぎわった。その中の中年男性「心を開いて」の歌詞の中で「人と付き合うことが苦手な男性」を思うくだりが出てきた。「私も人付き合いが得意じゃない。内気で目立たない。そんな存在にも坂井さんは目を向けていたのだと気付いたのです」
(以上2012年4月の朝日新聞の記事より)
****
ミュージックステーションで一度見たことがあります。記憶は少ないのですが。後から放送されたライブのビデオでのMCも言葉が少なく聴衆のもっと話してというような発言に坂井さんは照れていたような記憶がありますが。レースクィーンをしていた割には・・・まあもともとそういう人なのかなー。
病気が治って再活動していたらまたどんな曲を書いたのでしょうか。早世は残念。
負けないでは1993年の作品。作曲は織田哲郎。160万枚を売り上げた。
坂井さんは神奈川県で生まれ、レースクィーンやカラオケクィーンをしていたが23歳で受けたバックコーラスのオーディションを受けたことが転機となる。当時審査員をして後にZARDのプロディーサーになった長戸大幸さんに見出された。
妥協をしない人だったという、うたの入れ直しで納得いくまで20回も30回もやりなおしたそうだ。
テレビ出演やライブは極端に少なかったが所属会社ビーイングの高野昭彦さんは「テレビに出なかったのは、彼女が極端に緊張してしまい。よさが伝わらないと考えたから」「それに何より曲作りに力を傾けていたから」
2006年4月がんが見つかる、それでもレコーディングにやってきたそうだ。転移があり入退院を繰り返す。そして2007年5月病院内の事故で亡くなる。40歳だった。
ビーイングのビルで4月に開かれていた回顧展。多くのファンでにぎわった。その中の中年男性「心を開いて」の歌詞の中で「人と付き合うことが苦手な男性」を思うくだりが出てきた。「私も人付き合いが得意じゃない。内気で目立たない。そんな存在にも坂井さんは目を向けていたのだと気付いたのです」
(以上2012年4月の朝日新聞の記事より)
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ミュージックステーションで一度見たことがあります。記憶は少ないのですが。後から放送されたライブのビデオでのMCも言葉が少なく聴衆のもっと話してというような発言に坂井さんは照れていたような記憶がありますが。レースクィーンをしていた割には・・・まあもともとそういう人なのかなー。
病気が治って再活動していたらまたどんな曲を書いたのでしょうか。早世は残念。
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