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ポップスカズ

主に山下達郎氏の記事を中心に

うたの旅人「こまどり姉妹~ソーラン渡り鳥」

北海道帯広から1951年に上京。双子の長内栄子さん、敏子さん。姉妹は浅草で流しや、料亭のお座敷に出る余興をしながら一家の生計を支えた。
59年芸名を並木栄子、葉子として「浅草姉妹」でデビュー。60年に芸名を一般公募し、美空ひばりにあやかり「こまどり姉妹」に変えた。61年の「ソーラン渡り鳥」は姉妹の最大ヒットとなった。
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73歳(2011年現在)の今でも温泉地での歌謡ショーに出演するふたり。
幼い時、炭坑夫として北海道を渡り歩いた父親は戦後ほどなくして胸を病み、親類を頼って北海道の銭函に落ち着いた。駅前旅館の2階に間借りしたが家賃が払えず1950年一家は夜逃げをする。
夜行列車の旅。父親は馬市が開かれる釧路の大楽毛(おおたのしげ)で民謡の得意な妻に門付けをさせるようとするが実際にうけたのは一緒に連れて行った双子の姉妹だった。二人は美空ひばりの「悲しき口笛」を歌った。「そしたら大人たちに取り囲まれて次々とお金をくれるので「ああ今日はこれでごはんが食べられる」と安心したんです」敏子さん。

「人の欲の力は計り知れません。子供心にお金の値打を身にしみて思い知ると、死に物狂いで歌を勉強するようになっいてました。門付けは(別に)子供の旅芸人も回ってましたからね。あちらはプロ。先回りされると(私たちは)何も貰えなくなる。試練を克服しないと先へ進めない。この世の定めをたたき込まれました」

本来ならまだ小学校の姉妹が収入源になった一家は、その年の冬、帯広へ流れ着く。そこで始めたのが、ネオン街を練り歩き、借り物の三味線で父親が伴奏し、姉妹が歌う、民謡や流行歌を酒場の酔客に聞かせる「流し」の修業だった。

帯広でたった3カ月暮らしただけで一家が上京することになったのは。歌の力試しの野心が芽生えた姉妹の決断だった。かつて歌うか歌わないかの選択が、生きるか死ぬかのそれと同義だったその歌で、歌わずに生きていける安穏な人生の手がかりがつかめそうだった。

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そして「ソーラン渡り鳥」の大ヒットにつながってゆくのだが。大人気となった姉妹の地方公演のステージで、敏子さんがストーカーと化したファンに包丁で刺される事件が起きた。そしてその後の事務所の税金滞納、相次いだ両親の病死、敏子さんの末期がんの宣告。

事務所は、敏子さんのがんの手術の後解散し、こまどり姉妹の引退となりますが、その時のごたごたで借金を背負います。
1983年に地方の観光旅館でショーをしないかという誘いがあり1カ月公演を行います。それが縁で懐メロ番組から出演依頼がありカムバックすることになります。その後クラブの経営、そして喫茶店の経営をされていたそうですが。今は閉店されたそうです。

「私たち子供のころのどん底が人生の基本なので何が起ころうとも根に持つことなく乗り越えてこられたんです。そういう意味では私たちラッキーなのよ」栄子さんは屈託なくそういうのだ。

現在、姉妹は当j京の浅草周辺でつかず離れすそれぞれ一人で暮らしている。一日の終わりに一度だけ携帯で平穏無事を確かめあうと心安らかに眠るのだ。
(以上朝日新聞「うたの旅人」の記事。北海道新聞の2005年の連載を参考にしました)

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昔ですが、今も続く「題名のない音楽会」に出演されたことがあり、その時のMC、黛敏郎氏の解説では二人の歌、演歌なので二人とも同じメロディを歌うのですが、二人の節回しが微妙に違い。このあたりが絶妙のハーモニーとなるというような解説をされていた記憶があります。独特なこまどり姉妹。

そしてなんにしても昔の興業というシステムの不完全さに翻弄された人生だったのかな。まあ今でも独特な世界でありますが・・(最近の某演歌歌手の騒動を思うと・・)
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